荒木城は戦国時代に丹波地方で活躍した荒木氏綱によって
天文年間(1532~1555)に築かれた山城であり、細工所城とも呼ばれる。
氏綱は多紀郡一帯を支配していた八上城主波多野氏の家臣の一人であった。
氏綱は豪勇の武将として知られ、荒木鬼として恐れられていたという。
織田信長の命によって行われた明智光秀の丹波攻めの際には、明智軍を何度も
撃退したとされる。しかしながら、天正5年(1577)に始まった二度目の
丹波攻めの際、氏綱は八上城を守る東の砦として、荒木城で明智軍を迎え撃ったが、
激戦の末落城し、光秀に降伏した。
その後、明智軍は八上城を包囲し、1年以上の戦いの末、天正7年(1579)に落城させ、
多紀郡一帯を支配していた波多野氏は滅亡した。
波多野氏の滅亡後、氏綱は光秀にその武勇を買われ、家臣になるよう請われたが、
病身を理由に断ったという。しかし、氏綱の子らは光秀に仕え、本能寺の変や
山崎合戦にも参加したといわれている。
荒木城跡は標高約400m、比高約170mの山上、約200mの範囲に郭が築かれており、
尾根を削った切岸や堀切の跡が今でも残っている。
荒木城跡は戦国時代の多紀郡東部の守りの要として大変重要な位置にあり、八上城を
取り巻くその他の山城群とともに旧多紀郡、現篠山市の戦国時代を物語る重要な遺跡である。